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隙あらばと自殺を目論む社会人二年生の支離滅裂な掃き溜め

一周忌

 

9月1日は最も自殺者数が多い日だ。

という内容のブログを書いたのがちょうど1年前だ。

 

死ぬほど死にたがった死にたがりは公転に周回遅れでなおまだ生きている。

 

言葉は通じても話の通じない顧客と上司に擦り減らされて、アイデンティティですらある、なけなしの慈しみすら姿を消したようだ。

 

仕事の愚痴しか話題がないような大人にはなりたくないと思っていた。いたけど。けど。けど。逆説。

 

 

私は時間を殆ど止めてしまった。

堰き止めたその流れはふとした拍子に逆流しそうになるので、忘却で蓋をした。

そして私は、きっと過去を呼び起こす。

生産性のない夢と、顛末のない未来と、ケトン臭がひそめる私の野望。

 

「いい?」と私に言い聞かせる。

「私が死んだら、そこから先には世界はないの。遺される人や事ばかり考えるけど、それすら認識できなくなるの。だから、死後のことを考えるのは、枷にしかならないよ。」

希死念慮は揮発性が高い。」

「次こそ、逃さないようにね。」

 

一個体の幸福より、一集団の幸福より、人間という種の幸福を望んで、自殺します。

それが私という一個体の幸福の形。

 

自殺遺伝子なんていうけど、そんなのはきっと誰でも持ってるんだと思う。

その遺伝子は、個体によって、どの環境で発現するかが違うだけだ。

たまたま今の環境と私の自殺遺伝子が共鳴しただけだ。だから私がおかしいわけでもない(と思いたい)し、世間がおかしいわけでもない。

私たちはがん細胞そのものだ。

そのアポトーシスに従うことって、そんなに問題なのかな。

 

でもきっと私の友人が同じことを言ったら、泣いて喚いて止めると思う。

うーん。やっぱりエゴなのかな。

自殺が、じゃなくて、人間が「自殺」に立ち向かうことが。