ブログのタイトルが不穏な意味を持ってしまったこのご時世
つらい、つらい。ニュースを見るのが苦しい。今ウクライナでは緊急避妊薬がとても売れてる。つまりそういうこと。クソが。支援物資としてアンチレイプコンドームをたくさん送りたい。全員ちんこズタズタになればいい。
第二次世界大戦の話を聞いたことがある。一時的に自宅に入れるようになって、親に連れられて帰宅したその子は大好きなぬいぐるみをギュッと抱きしめた。途端その子は吹き飛んだ。ぬいぐるみに爆弾が仕掛けられてあった。これと同じことが今起こってる。自分の家のあらゆる箇所に爆弾が仕掛けられている。貴重品だけ持って逃げるために一時帰宅を許されるが本当はそんなの建前で巧いこと家族ごと殺す気で。
人間って低脳で低俗で野蛮で狡賢くて利己的で最低な生き物だ。そして自分も同じく人間なんだということに厭世。感受性豊かなんて言葉で合ってるのか分からないが。生きていたくないよね。こんなクソッタレな世界で。
自殺と他殺の本意
殺される夢を見た。
いや、殺される夢自体は何度も見たのだが、今日の夢は現実味が凄くて暫く放心状態だった。
踏み殺される感覚がリアルだった。
息絶えていく過程で意識が遠のく感覚にさえ現実味が宿り、「助けて」と強く思った。
内臓と骨がおそらく飛び出しているのだろうけど、それでも助かりたい、生きたいと思った。
もがく私の体や臓器を先生は何度も踏み潰した。先生の表情は見えなかった。
起きて、朝ごはんを食べ、活動し、ふと訪れる希死念慮。拭い切れない死への渇望。
夢の中ではあんなに殺されるのが恐ろしくて死にたくないと捥がいていたのに。
他人から殺されるのは胃が底冷えするような恐怖を感じてもなお、自ら死にたいと願う。
矛盾しているようだが、それは自殺と他殺の違いか?本当にそれだけの違いか?
答えは死を全うした後にしか知る由はない。
真夏日
夏は希死念慮が茹だるからふと気づくと人が死んでいる。なのに私はまだ生きている。
不当な評価。理不尽な指示。原因をはっきりさせようともしない人間。
私はそれらをなあなあにして受け流すことができない。大人の対応ができない。「それらしく」「適当に」「うまいこと」茶を濁すことができない。
だから適応できない。
納得できなきゃ動けない。はっきりさせたい。
それって、目障りらしくて。
集団行動から外れてるらしくて。
物分かりの良い大人になれなくて。
私は生意気なガキでいいや。
屁理屈を捏ねるクソガキでいいや。
なんで?おかしくない?これ意味無いよね?正しい数値が出ないよね?じゃあ順当な評価にはならないよね?それって良くないことだよね?じゃあなんで放置してんの?誰もおかしいと思わないの?気づいても気づいてないふりしてんの?じゃあ私たちがやってる作業って何の意味があるの?狂った数値を計測して、正確な数字が出るはずのない作業を、なんでやらされてるの?なんで誰もおかしいって言わなかったの?
私は曖昧にやり過ごしたくない。
今更一般人になれるわけもない。
この社会不適合脳は変わらない。
別室
また夏がくる。
たくさんの私を殺してきた夏が。
さて、今年の夏をどうやって迎え撃とうか。
あいみょんはロック聴いて恋を乗り越えてきたけど、私は、私は?
失恋が完成しないまま何年が経った?
箱庭を失ってから何年が経った?
シェルターはもう作れない。
箱庭を巻き戻すことは出来ない。
今の私はただひとつのしがらみに寄り掛かってそれだけで私を継続している。
キャストが散らばる。過去が拡散していく。
記憶が黄色く焼けていく。
あの日の演習室を再構成することが出来ないのなら、違う形のものを、罪滅ぼしの彼女を、準えた三人組を、年齢も住む場所もバラバラの彼女らを、ひとつ、私の、お部屋にしよう。
代わりにもならないかもしれない。
けど外枠だけでも縋っていないと、夏の濁流に殴り殺されてしまう。
体はどうだっていい。けど心は殺されたくない。
最期まで自我を持ったまま死にたい。
シュガービター
死にてえ〜〜〜〜
だって「ほんとに反省してるの?」って
猛省してても態度で表せないのはもう一生治らないから死ぬまでこう思われ続けるんだろうから死にたい
それを説明して分かってもらえたと安堵したはずなのにまた同じことを繰り返した
救いようの無い馬鹿です死にたい
治らないなら死にたい
死ぬまでこのままなら死んだ方がマシだと思う
なのに困ったことに死ぬ気力もなければ死ぬ準備する気力もない
身辺整理くらいしたいじゃん?全然進んでないんだよね
こんなんで生きてるって言えるのか
私のせいじゃないのに。障害のせいなのに。私の意思じゃないのに。治せるなら治したいよ。いつか治るよとかって前向きは要らない。現実見ろ。先天性の脳の欠損がいつか治るわけねえだろが。これが私の現実だ。変えられない現実だ。変えられるのは死ぬことだけ。緞帳を下ろすことだけが私にできる全て。
無条件降伏
ブログのタイトルを変えてみた。
だって、自殺するの、無理ゲーじゃない?
もちろん死にたい気持ちが消えたわけじゃない。ふとした瞬間に揺り戻されて、死ぬことでしか救われないのではとも思う。
けど私は遺される人に迷惑をかける死に方はしたくない。なるべくね。
そんな縛りを自分に課して自殺方法を探していたら、ああ死ぬのってなんて困難なんだろう、と。
だから諦めた。生きるのも死ぬのも諦めた。
生きないまま死なないままずっとこのまま。
幸せが何かも知らないし、過去の飲み込み方も知らないし、未来展望の描き方も知らないし、適応の仕方も、適応すべき正しさも、自我半径の広げ方も、忘れられ方も、生き方も、死に方も、知らないまま。
この躰に産まれた時点で詰みなんだよ。
せめて普通の人間だったら。
健常者として生きられたら。
だからこれ以上罪重ねないように
自我の欠片をこれ以上無くさないように
何物とも混ざらないようにしながら
なるべくなるべく無害に近づけるように
手放しで生きられるほど楽観的じゃないけど。
諦めて絶望しながらなら、生きられるかなって、思ったんだ。